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瞑想を始めたきっかけ(後編)

前回の瞑想日記で、瞑想を始めるきっかけを書いてみました。

今回はその続きです。

 

カンボジアの山岳民族ジャライ族との関わりの中で、論理やメンタル的な観念以外の現実感というものに触れることができた気がします。

東日本大震災のボランティアの経験では、自然に対しての人間の営みの儚さみたいなものを肌で感じました。

ふと気がつくと自分の中で目標とか、価値観、指針、原則、そう言ったものが一切なくなっていました。

このとき、自分の内側で何かがシフトしたのだと思います。

日常を生きるということを、川の流れを手漕ぎボートをこきながら進んで行くことに例えてみます。

物心ついた時から、このボートの目的地は川の上流の山の方だということを何一つ疑わずに、一生懸命オールを漕いでがんばりつづけていました。

でもある日、実は目的地は上流ではなくて下流なのではないかとふと気がつきます。

下流たどり着くには一生懸命漕ぐのではなくて、ただ流れに乗って海までたどり着くだけ。

あらゆる抵抗を手放して、下流の海まで流されていくことは大きな喜びになる気がするし、何よりもリラックスしてその流れを楽しむことができる。

必死にオールを漕ぐ必要がなくなるので、周りの景色も楽しめるようになる。

上流に向かっている時は、食料としてなんとか魚を釣らなければいけなかったのが、なぜか下流に流れ出した途端に、魚が飛び跳ねてボートに入ってくるような感じがします。

そうだとしたらものすごく簡単に下流にたどり着けるはずですが、なぜか人間の無意識の傾向として現状にしがみつきやすいというのがあります。

(この自我の抵抗を手放すことが一番難しいことなのかもしれません)

なんとか今いるところから流されないで必死にしがみついてしまう。

そして習慣から来る癖として、無意識にオールを漕いで上流に向かおうとしてしまう。

特に目的地を上流から下流に設定し直すなんて、今までの人生の全否定になってしまうからなんとしても阻止したいと思ってしまう。

自我のレベルでは、海に流れ着いてしまうなんて最大の敗北なのかもしれません。

でも実は最大の解放なのだとおもいます。

自分の内側にこんな変化が起こったのを感じながら、震災ボランティアを終えました。

ボランティアの終了後、何も考えないで一時期カンボジアに戻りました。

とりあえずカンボジアで個人的にやり残したことなどもあったので、それを完了しました。

その後のビジョンは全くなかったのですが、とりあえず全部ゆだねようと思いました。

自我の範疇でできることをすべて放棄して、起こるがままにゆだねようと思いました。

その時点で(今もそうですが)唯一気持ちがワクワクすることは旅でした。

なので唯一の気持ちの衝動に従って、その時点での有り金(70万円くらい)がなくなるまでぶらぶらと放浪しようと思いました。

行き先も決めずに思いつくままに。

どこにたどり着くのだろう。

どんな物事にたどり着くのだろう。

どんな仕事にたどり着くのだろう。

どんな人に出会うのだろう。

ただただ眺めてみようと思いました。

 

気の向くままにネパールやマレーシアを旅しました。

ある時、知り合い3人からタイのチェンマイに言ったらどうだろうと勧められました。

不思議なことにこの3人は全くバラバラの人なのですが、とても短い期間にそれぞれからチェンマイに行くように勧められました。

何かの縁を感じてチェンマイに行くことにしたのです。

結果的にチェンマイで瞑想を学ぶことができました。

瞑想のおかげで、その後の様々な旅の機会をもえられることになりました。

それは一つの大きな流れだと感じています。

自分にとって瞑想というのはただ流れに乗ること。

それは日常を生きていく時の指針と全く同じものです。

 

 

自分(自我)の意図しないところで、自然に与えられた流れの中で瞑想に出会えました。

人生で大切な出会いは、ほとんどの場合意図しない形で与えられる気がします。

縁のある人との出会い。

縁のある場所との出会い。

縁のある仕事との出会い。

そして何よりもこの世に生まれるという人生そのものとの出会い。

人生で大きな意味を持つことはほぼ例外なく、自我の目的や意図が及ばないところで自然に発生してます。

自分にとって瞑想との出会いもまさにそんな感じでおこりました。

よし瞑想するぞ!と気合を入れて始めたわけではなく、よくわからないけど気がついたら瞑想を始めていた。

そういう出会いをしたからこそ瞑想を信頼して続けているのだと思います。