前回の瞑想日記で、瞑想を始めるきっかけを書いてみました。
今回はその続きです。
カンボジアの山岳民族ジャライ族との関わりの中で、論理やメンタル的な観念以外の現実感というものに触れることができた気がします。
東日本大震災のボランティアの経験では、自然に対しての人間の営みの儚さみたいなものを肌で感じました。
ふと気がつくと自分の中で目標とか、価値観、指針、原則、そう言ったものが一切なくなっていました。
このとき、自分の内側で何かがシフトしたのだと思います。
自分の内側にこんな変化が起こったのを感じながら、震災ボランティアを終えました。
ボランティアの終了後、何も考えないで一時期カンボジアに戻りました。
とりあえずカンボジアで個人的にやり残したことなどもあったので、それを完了しました。
その後のビジョンは全くなかったのですが、とりあえず全部ゆだねようと思いました。
自我の範疇でできることをすべて放棄して、起こるがままにゆだねようと思いました。
その時点で(今もそうですが)唯一気持ちがワクワクすることは旅でした。
なので唯一の気持ちの衝動に従って、その時点での有り金(70万円くらい)がなくなるまでぶらぶらと放浪しようと思いました。
行き先も決めずに思いつくままに。
どこにたどり着くのだろう。
どんな物事にたどり着くのだろう。
どんな仕事にたどり着くのだろう。
どんな人に出会うのだろう。
ただただ眺めてみようと思いました。
気の向くままにネパールやマレーシアを旅しました。
ある時、知り合い3人からタイのチェンマイに言ったらどうだろうと勧められました。
不思議なことにこの3人は全くバラバラの人なのですが、とても短い期間にそれぞれからチェンマイに行くように勧められました。
何かの縁を感じてチェンマイに行くことにしたのです。
結果的にチェンマイで瞑想を学ぶことができました。
瞑想のおかげで、その後の様々な旅の機会をもえられることになりました。
それは一つの大きな流れだと感じています。
自分にとって瞑想というのはただ流れに乗ること。
それは日常を生きていく時の指針と全く同じものです。
自分(自我)の意図しないところで、自然に与えられた流れの中で瞑想に出会えました。
人生で大切な出会いは、ほとんどの場合意図しない形で与えられる気がします。
縁のある人との出会い。
縁のある場所との出会い。
縁のある仕事との出会い。
そして何よりもこの世に生まれるという人生そのものとの出会い。
人生で大きな意味を持つことはほぼ例外なく、自我の目的や意図が及ばないところで自然に発生してます。
自分にとって瞑想との出会いもまさにそんな感じでおこりました。
よし瞑想するぞ!と気合を入れて始めたわけではなく、よくわからないけど気がついたら瞑想を始めていた。
そういう出会いをしたからこそ瞑想を信頼して続けているのだと思います。
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